2008年の4月に渡仏してきたのですが、その時行った語学学校で出会ったリビア出身のクラスメートのことは、その後のリビアのカダフィ大佐政権の崩壊もあって。
フランスで出会った忘れられない人たちの中の1人です。
語学学校のクラスの生徒は、私も含め日本人4人、韓国人1人、南アフリカ人1人、メキシコ人1人、そしてリビア人2人の計9人でした。
最初のクラスメートたちなので、それぞれに印象深い想い出があるのですが。
特に今も、あの人はその後どうしているのだろう、と、ときどき思うのが、結婚していて小さなお子さんが2人いるリビア人のアスマという女性です。
彼女はお父さんが政府関係の仕事をしていて、政府の援助で家族皆でパリに勉強に来ていました。
いつもヒジャブ(スカーフ)を被っていて、どちらかと言うと控えめで、おっとりしていて可愛らしい雰囲気。
でも必ずほのかに香るくらいの香水をつけていて、私たちイスラム女性は香水でおしゃれを楽しむの、と言っておりました。
授業でそれぞれの住まいの話になった時は、クラスメートの1人に、リビアの自宅の敷地面積を聞かれて、正直に答えていたのですが、それがかなりの広さ。
皆が、ええ~!!とびっくりしていたら、困ったような、でもまんざらでもないような(でもそれはまったくイヤな感じではなく)照れた表情をしておりました。
ダンスの話になった時は、ディスコは好きか、行くか、みたいな話になって。
その日ちょうどアスマの隣に座っていた私がそっと、ねぇねぇ、ディスコ行ったことある?と聞いたら。
最初は、ないわ、と言ったのだけど、その返事がどうもあやふやな感じだったので、こりゃ行ったことあるな、と思って。
誰にも言わないから教えて、と言ったら。
(普段からよくアスマと話す方だったので)実は旦那さんと2人だけで1度だけパリのディスコに行ったことがある、と内緒で教えてくれました。
しかもヒシャブをとって。
で、私が大袈裟に、ええ~!!と驚くと、慌てて、だめだめ大きな声出したら!
と焦って私の口をふさごうとしたので。
大丈夫、誰にも言わないから、と言って2人だけでくすくす笑った、なんてことがあります。
やはり隣同士の席で料理の話になった時は、得意料理は何?と聞くと、ロシア風ポテトサラダよ、とても美味しいの、と言うので。
興味津々で、それ知らない、何が入ってるの?と聞くと、じゃがいも、人参、茹で卵などで、ほぼ日本のポテトサラダだったので、ポテサラって世界中にあるんだな、と知りました。
カダフィ大佐を尊敬してるか、と聞いたこともあります。
彼女は、もちろん尊敬してる、と答えました。
ただ、そう答えた時一瞬迷いが感じられ、でもそれをすぐ自分で打ち消すよう言ったように、私には見えました。
なのでそのことについてはそれ以上聞きませんでした。
一緒のクラスだったのは3ヶ月で、最後の授業の時は、他のクラスと合同で皆で持ち寄りのパーティーをしました。
私は自分のアパルトマン近くの中華総菜屋&レストランのガーリックポテトを買って持っていきました。
美味しい美味しいと大人気であっちゅう間になくなりました。
ちなみに。お店の方がポイントをちょっと教えてくれて再現に成功したレシピがコチラです。
→
お店の味とまったく同じものが出来て、めちゃ美味しいです。
じゃ、話を戻しまして。
アスマはその時アラブのお菓子を持ってきました。
正直それはどれも甘過ぎだったのですが、アラブのお菓子初めてだったので、アラブのお菓子ってこんなに甘いんだ、とある意味新鮮な出来事でした。
最後には全員で「オー!ジャンぜリゼ」を歌ってめちゃくちゃ盛り上がりました。
それが彼女と会った最後の日、だったのですが。
2010年の6月か7月くらいだったと思うのですが、偶然メトロで再会しました。
彼女は2人のお子さんといて、私の方が気づいて声をかけました。
まさか会えると思っていなかったのでびっくりしたし嬉しかったのですが。
彼女はそれほど驚かず、ほとんど笑顔を浮かべず、とても疲れた表情をしていました。
お子さん2人いて大変なんだろうな、と思い、少し話してその場を離れたのですが。
それにしてもちょっと別人のように暗くなっていたので、それが気になりました。
その翌年、カダフィ独裁政権が崩壊し、そしてカダフィ大佐が殺害されました。
そのニュースを知った時はすぐにアスマのことが浮かびました。
パリにまだいたのか、それともリビアに戻っていたのかわからないけど、どちらにしても彼女にとっては人生が180度変わってしまう大きな出来事。
厳しい現実が待っているんだろうし、メトロでの暗い表情も、もしかしたらこのことが関係していたのかな、とも思いました。
彼女のお父さんは政府関係者で、自宅が大きくて、彼女もとても恵まれた環境で、確かにそれらの多くがカダフィ政権からの恩恵だったのだろうけど。
彼女は決して悪い人ではなかったし、その逆と言ってもいいような人だったと思います。
可愛らしい正直な人でした。
彼女と会うまで、イスラム女性は自分と違う世界の人的な感じだったけど、それは違うとわかりました。
そう考える最初のきっかけになったのが、彼女だったように思います。
今もリビアは結局民主化されず混乱が続いているようですが、どこかでご家族皆で元気に暮らしていればいいな、と。
ふとアスマのことを思い出す時、そんなことを思っております。
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コメント
コメント一覧 (2)
微妙な否定の仕方が何とも面白いですね。
一緒に行ったのが旦那さんなら、未だ話しやすいですね。
得意料理がリビア料理でもんまく
何故、ロシア風ポテトサラダなのか不思議です。
リビアとロシアの接点が分からないです。
ロシア風ポテサラもそれほど
日本でよくみるポテサラと変わり映えしないんですね。
ところでカダフィ大佐を尊敬してるかという質問に
対する答えは、尊敬している以外の答えはけっして
出来ないんでしょうね・・・。
言論の自由はどこの国にもあるものではないんでしょう。
日本は、政治家の悪口も平気で言いますね。
アラブのお菓子の事は、知らないけど、
トルコのお菓子は頭がガツンとするほど甘いと言います。
イスラム教の文化の国々のお菓子は甘そうですね。
カダフィ政権が崩壊する前に彼女にあった時
雰囲気が暗かったのは、カダフィ政府から恩恵を
受けた身としては、政権の雲行きが危ういのは
困るから、生活が心配で暗かったのかもしれませんね。
政権崩壊でお金に困ったりとかせず、
無事に暮らせているといいですね。
彼女は誤魔化すのが上手くない人だったように思います。
なので、ディスコもカダフィ大佐についても、平然と答えられなくて、すぐ表情に出ておりました。
人間は平然と嘘をつける図太い人がおりますが、彼女はそうではない人だったように感じております。
カダフィ大佐については、言論の自由のないリビアだったので、皆自分の考えを率直には言えなかったのですよね。
中国人の旦那さんのパリの大学院留学で一緒に来ていた中国女性もそうでした。
そっと、本当に思ってることは、本当に信用出来る家族だけの時に話す、と言っておりました。
恐い国です。
今40代になっていると思いますが、それまでの生活と変わらず、まではいかなくても、幸せに暮らしていてほしいです。